39. 2人分の愛情

 大正11年生まれ。京都府の綾部に住んでいました。
 私は20歳で婚約をしました。でも婚約者に会ったのはたった1回だけ。その人は兵隊さんだったんです。新兵をつれて帰ってくる仕事があり、その機会に見合いをしました。「結婚してください」と言われて「はい」とお答えしました。が、すぐに戦地に戻らなくてはいけないので、たった1日しかありませんでした。

その日は旅館に泊まっていたので、私の父が
「今晩、結婚させてやってくださいませんか」
 と頼みました。なにしろ次に会えるのはいつになるかわかりませんから。すると婚約者は
「僕は国のために戦争に行かなあきません。死んで帰るか生きて帰るかわからないから、今結婚することは見合わせてください。元気で帰ってきたら、そのとき結婚させてください」
 と言ったんです。それで京都駅でお別れをして、それっきりです。当時はみんなそんなふうでした。男の人は戦争に行ってしまい、残っているのは女性と子供と老人ばかりだったんですよ。結婚するのが難しい時代だったんです。

 それでも婚約したものですから、私は舅と姑の世話をするようになりました。
 私は綾部に住んでいましたが、姑は福知山。15キロほど自転車をこいで、月に2~3回も通いました。モノのない時代でしたから、珍しい食べものが手に入ったら持っていってあげたり、蚊帳を吊ってあげたり、破れたシャツに継ぎをあてたり。そんな生活が4年ほどつづきました。

 婚約者はなかなか帰ってきませんでした。戦地から2,3回便りがありましたが、それだけです。戦況は厳しくなり、生きているのか死んでいるのかもわかりません。終戦を迎えても帰ってきませんでした。とうとう婚約者の家族から
「あんまり長いあいだこの家に縛りつけるのは申し訳ない、他に縁があればそちらと結婚してください」
 と言われたんです。でもね。私は、あの人と婚約してるんですよ。そんな失礼なこと、できませんでしょう?
「帰ってくるまで待っててくださいね」
 と言われて「ハイ」って返事したんですもの・・・。
 けれどそれから数ヶ月して、婚約者はフィリピンで戦死したと、公報に載りました。

 婚約者の弟が帰ってきたのは終戦の翌年でした。ビルマの生き残りで、やせ細っていました。
 家族や周りの人たちは
「死んだ婚約者のかわりに弟と結婚してはどうか」
 と言いました。弟も、私が長いこと両親の世話してきたと知ると、結婚しようという気になりました。
「一生、兄さんと僕と、2人分の愛情をかけます」
 と言ってくれたんです。私はその言葉を聞いて「この人と結婚しよう」と思いました。京都駅で婚約者と別れてから4年数ヶ月が経ち、私は24才になっていました。

 「2人分の愛情をかけます」と宣言したとおり、主人は102才になる今まで一度も怒った顔を見せたことがありません。このひとと結婚してよかったと思っています。また、主人は亡くなった兄(婚約者)ととても仲が良かったそうです。
「兄さんなら僕よりもっと大事にしてくれたはずだよ」
 と言います。穏やかないい人だったそうです。京都駅での別れ際に2人で撮った写真を今でも持ち歩いています。

38. 空襲の記憶

 戦争なんかしたらダメ!日本の国も当時はえらい人たちが負け戦(いくさ)にあわてふためいていたのでしょう。けど、わたしたち子供は学校にも行けず勉強もできない、ひどい目にあったんです。

 私は当時12~3才、まだ背の低い女学校2年生でした。その日はたまたま、家から少し西にある県立明石農事試験場へ、女学校のみんなと勤労奉仕に出かけていました。そこへアメリカの飛行機が、私たちの住む明石上空めがけて飛んで来たのです。警戒警報は空襲警報に変りました。
 サイレンと共に先生が
「急いで、みんな走って家に帰りなさい!」
 と云われたので、友だち数人といっしょに明石公園の坂を上りつめて走って走って家に帰りました。

 途中、もうアメリカの飛行機が機がブンブンと低い音を立てて東からこちらへ飛んできていました。逃げる日本人を上空から機関銃でダ・ダ・ダ・ダ・ダ、、、と追いながら撃つのです。どんなに恐ろしかったことか・・・。
 敵機が飛ぶその下を私は友達数人といっしょに必死で走りました。農事試験場から家のある太寺まで、3キロほどはあったでしょうか。それも家は高台にあったので上り坂です。あんなに長い坂道を、あんなに速く走ったのははじめて! みんな一言もものを言わずにわが家へわが家へいっしょうけんめい走りに走って、分かれ道で
「サヨナラ!」
 と手をふってそれぞれの家に帰ったのです。

 帰った途端、父が作った防空壕へすべり込みました。母や妹たちの無事を確認し、目と耳を両手で押えて爆撃の間、小さな防空壕の中で寄り添ってじーっと敵機が遠ざかるのを待ちました。
「あ、お父ちゃん!入ってきてない。どないしたんやろ」
「アメリカの飛行機が上空へ来ている時に外に出られへんやんか。」
 とみんなで心配しつつ身をかがめていました。

 やっと爆音が遠ざかったので、そうっと外へ出たら、大人の人たちが戸板をタンカにして怪我した人を運んでいました。すぐ隣りの上の丸方面の爆撃でやられ、避難所になっている高家寺まで運んだとのことです。一人の人が裏山の方に逃げて、逃げてる所を見つけられてアメリカの飛行機から撃たれて死なれたということで大ショックでした。
「裏山に逃げないで防空壕にいたらよかったんと違う?」
 とみんなで悲しんだことを今でも覚えています。
 怖くて怖くて一生懸命に走ったあの日のことは、一生忘れられない恐ろしい思い出です。

37.お国のために

西陣織の織屋

 大正13年の生まれです。家は京都の西陣です。織物の町ですね。
 うちも西陣織の織屋でした。織り物いうのは、それはそれは手がかかっているんですよ。ものすごくたくさんの工程がありましてね。全部が分業なんです。家には3台か4台かハタがあって織り手はん(男の人)や糸継ぎさんが働いてます。

 私も子供の頃からその手伝いをさされてました。私がするのは、糸を巻きとる「ぜんまい」の仕事です。学校から帰ったら手伝わなアカンから勉強するヒマなんかあらへん。夕方、友達が誘いにきて、周りの職人さんが
「みっちゃん、もう行ってええで」
 って言ってくれたらね、そのときだけは外へでて、鬼ごっこやら隠れんぼやらして遊びました。機織り機は大きいのですよ。カタンカタンと音がしてね。トントン、て締めるんです。その音が聞こえてきたら、なんとなく気持ちがよろしいですね。

おばあちゃん

 3才くらいのとき母が死にましてね。継ぎの母が来てくれはったんです。でもその人があんまりええ人やなかった。顔はきれいやけど心がよくなかった。しょうもない意地悪ばっかりしますねん。父親も新しい嫁さんを守ろうとする。私は小さいときに死んだお母さんのことははっきり覚えてないから、
「前のお母さんはどんな人やったんえ?」
 て聞きたいねんけど、昔のことを知ってるおなごし(女中)さんは全員やめさせられて、誰も知らんかった。ただ、一緒に住んでた父方のおばあちゃんだけは、いっしょけんめい私を守ってくれはったんです。

 このおばあちゃんが気の毒な人でね。おじいちゃんが外に妾を囲いよった。しかも、それを家に呼ぶんですよね。床の間のところ(上座)へおじいちゃんと妾はんとが座って。おばあちゃんがお茶を出して
「どうぞおあがりください」
 って言いますねん。それが「出来た女房」と考えられていたからです。昔は男性が偉くて女は低くみられてた。男女の差というのがすごかったのですよ。

 私には弟がいましたが、女の私のほうが低く見られます。おばあちゃんはそんな私を守ってくれた。だから私もおばあちゃんを守ろうと思った。しっかりしないとおばあちゃんを守れない。子供やったけどいろいろなもんを見て、大人になりました。それでね、私、結婚するまでずっとおばあちゃんと一緒に寝てましてんで。
「みっちゃんと一緒に寝てるとあったかいわ」
 とおばあちゃんは言いました。

愛国少女

 高等小学校を出たら働きに出ました。16才のときに戦争が始まります。お茶やお花も習っていましたが、そんな場合じゃないと思いました。裾の長い着物を着ていると非国民やと言われましたし、私も
「戦争の手伝いをしないかん、お国のために働かないかん」
 と思い込んでいました。そういう時代でしたし、私はそういう人間でした。
 ある日、島津製作所の前を通りかかりました。
「ここは軍需工場、戦争のことをやってる会社だ。ここならお国の役に立てる」
 とわかりましたので、入っていって受付で人事課の人に合わせてくれと頼み、
「ここで働きたいと思います!」
 て言うたら
「明日からでも来てくれ」
 ということになったんで、勤めていた会社をその日にやめて、島津製作所に入りました。親にも誰にも相談しないで、その日にですよ。しかも家から遠かったんです。電車賃がだいぶかかりました。

 仕事は「海軍課」での事務でしたね。私は事務員として働いていましたが、やがて工場の手伝いにいきました。そこでは爆弾をつくるんです。火薬を入れていくんですよ。とにかくあの頃は何もかも戦争、戦争でね。配給で食べるもんもなくて酷いもんでしたけど、それでも「お国のために何かせんならん」と思っていましたから一生懸命でした。
 こんなこともありました。休み時間に友達と話をしてると、同じ工場の男の人が
「僕らと仲良くしませんか」
 て言うてくるんです。私は説教してやりました。
「今はそんなことしてる時と違いますやろ!」
 なにしろ国のために尽くさんならんという気持ちだけでしたから。わずかな給料も電車賃以外はぜんぶ家に入れて、まったく遊んだりせずにね。国を守るために働いて、家ではおばあちゃんを守る。一所懸命に。そういう青春でした。楽しみなんて、懐中電灯を持って押入れに入って、本を読むくらい。漱石はぜんぶ読んだね。

 大阪や東京は空襲がひどかったらしいですけど、京都にはほとんど爆弾は落ちしませんでした。だから戦況が悪いという実感がないんですね。勝つ、勝つ、と言われてたのを信じてた。工場でもずっと爆弾を作ってたし。
 だから戦争に負けたときはアホみたいでしたよ。こんなに頑張ってるのに負けるやなんて!玉音放送は家でラジオで聞いてたんですが、
「日本負けた!負けたよ!」
 って叫んで家族に知らせました。

 戦後は食べるものがないので、田舎へ着物を持っていって食べ物と交換したりしました。でもね、京都駅で国が取らはるねん。せっかく手に入れた食べ物を役人みたいな人が持っていってしまいよる。理由なんかあらしません。ただ黙って取っていきよるんです。
 アメリカの兵隊が私の手を引っぱって連れていこうとしたこともあります。「ええええ!」と思ってたら、隣にいた中年の男の人が
「マイ・ワイフ、マイ・ワイフ!(俺の妻だぞ!)」
 って助けてくれた。あのまま連れて行かれてたら、どないなってたやろね。そのあとも電車を待ってたらアメリカ人がいっぱい歩いてるでしょう。また手を引っ張られたら終わりやから、せいぜい顔が見られへんように気をつけてました。

 その頃は食べるものがないから大変やったね。ドロドロのおじやでも家族に食べささなあかんからね。それやから、お母さんは意地悪をして、おばあちゃんのご飯を減らしたりするのよ。
「年寄りやからお腹すかへんでしょ」
 いうて。そんなことあらへん、年寄りでも同じように食べたいのよ。でも、そうは言われんから、私の分をおばあちゃんにこそっとあげてた。まあそういうこともあって戦争は二度としたくないね。

 主人とは見合い結婚です。捕虜になって一年後に帰ってきた人でした。ひと目みるなり「あ、このひとは真面目な人や、この人やったらええ!」
 と思いました。まあ一目惚れですわね。結婚をして家を出るときは嬉しかったです。あの揉めとる家をやっと離れられるって・・・ただ、おばあちゃんを置いて出ることだけが気がかりでした。

36. 縁故疎開の淡路島

  昭和10年、尼崎生まれ。尼崎は空襲もあったけど、住宅街だったせいか、そんなに危ない目には遭わなかった。ただ工場地帯に爆弾が落ちると防空壕に入ることになってて。そのとき食べ物を持って入るのよ。いいものはなかったけど、乾パンとか、ふかしたお芋とか。防空壕の中でそれを食べるのが楽しみやったくらい。

 小学校3年か4年のときに疎開をした。疎開って2種類あってね。「学童疎開」いうて学生さんばっかり集団で疎開することもあったし、「縁故疎開」いうて親戚のところに疎開することもあった。

 私は縁故疎開。淡路島の、父のいとこの家へ行ってん。私一人で行ったんよ。父は電気の技術者やったから兵隊にもとられずに働いてたし、母と小さい弟たちも尼崎に残ってた。だから私一人で疎開したの。

 親戚いうても父のいとこやから、ぜんぜん知らん家や。心細かったなあ。 みんな仲良くしてくれたけど、最初はな、言葉もちょっと違うでしょ。おかずの味もちょっと違う。

 着てるものもみんなと同じモンペやねんけど、それでも柄が違うのよ。地元の子が着てるのは地味な木綿やけど、私のは母の銘仙の着物をほどいて作り直したモンペなの。ちょっと違うでしょう? 珍しがってみんな触りにくるのよ。私はまだ3年生やったし、泣いたわ。いえ、いじめるっていうより、ただ珍しいだけやってんけどね。

 それから学校へ行くときのカバンも。みんなは肩かけのカバンを持っていくの。家でお母さんが縫ったようなね。でも私は町中で育ったからランドセルをしょっていく。するとそれも珍しがって、また

「いらわして(触らせて)!」

 って、触りにくる。それを今度は「ええよ」いうて、ランドセル持たせてあげてるうちに仲よくなったりした。

 それに疎開先の家のおばあちゃんが優しい人でね。みんなと同じような肩かけのカバンを作ってくれたんよ。

 農家だから食べるものには困らなかった。おかずは少なかったけどご飯はたくさんあったな。おじさんが出征してたから、代わりにおばあちゃんが一生懸命に畑仕事をしてはった。私も手伝ったよ。

「できることがあったら、やって」

 って言われたら、そら頑張るよ。頑張らなアカンやん。もう3年生だったし、それなりに気を遣ったんよ。クワなんて持ったことなかったけど。その家には小さい女の子がいたからよく相手もしたなあ。

 みんな優しくしてくれたけど、家に帰りたくて、ときどき外に出て泣いたわ。そしたらおばあちゃんが

「一緒に寝たる」

いうて、一緒に寝てくれたの。

 最初はそんなふうに一人やったけど、あとからお母さんが弟たちを連れて来てくれて。別に家を借りて、一緒に住むことになった。そりゃもう嬉しかった。

 私らが疎開したのは淡路島の海辺で、大阪湾がよく見えた。海の向こうに神戸の空襲も見えたんよ。近所の人が

「大阪や神戸が燃えてるで!」

って教えてくれた。尼崎の私の家は燃えてへんやろか、お父さんは死んでるかもしれへん、と心配したなあ。

 いろんなことがあったけど、家も家族も無事やったから、まあ、よかったわ。今は三田で幸せや。

35. お嫁さんは着物で

 昭和26年に二十歳で結婚しました。職場結婚でした。私は裁判所でタイピストをしていて、そこで主人と知り合ったんです。

 結婚してから新居が見つかるまで、しばらくの間は主人の実家で暮らすことになりました。私はまったく知らなかったんですが、主人の実家はなんと15人の大家族でした。富山の旧家で、湯治宿を営んでいたんです。両親とお兄さん、お姉さんたちの家族。家族経営ですね。あと釜炊きのおじいさんと女中さんが一人ずついました。

 私は結婚するまではもちろん洋服を着ていました。裁判所の仕事もしていましたしね。明治でもない大正でもない昭和26年ですから、もう「みんなが着物」という時代ではなかったんですよ。でもお舅さんからは

「着物を着てくれ」

 と言われました。田舎の、それも湯治宿なので「お嫁さんは着物がいい」ということでした。それで朝起きたらすぐお太鼓(帯)をしめて、上から割烹着を着て働きました。

 家業の湯治宿には部屋が四十もあり、満室になるほど流行っていました。15人の大家族というだけでも大変ですし、湯治宿では食事も出しますから、多いときだとご飯は3斗(300合、約45キロ)も炊きます。釜で炊くんですよ。そりゃもう大変です。夏のことですから暑かったですし、

「そろそろ洋服を着てもいいですか」

 とお舅さんにきいたら

「もうちょっと着といてくれ」

 と言われました。

 ひとつ大変な思い出があります。5月は布団を洗うことになっていました。風呂に膝くらいまでお湯を張って、そこにお布団を漬けて、足踏みして洗うんです。それから川ですすいで、絞って、乾かします。

 なにしろ四十部屋もあるわけですから布団はたくさんありました。それを義姉さんとお舅さんと私の3人で洗うんです。本当に大変でした。洋服ならまだ良かったのに、着物にお太鼓をして割烹着も着て・・・毎日くたくたでした。

 嫁にいって2週間後、おばさんの家にいく用事がありました。自分のおばさん、身内ですね。だから気が緩んだんでしょう。

「おばちゃん、こんにちは!」

 と玄関に入ったとたん、パタンと倒れたそうです。過労ですね。2時間か3時間かして目が覚めて、ご飯を食べてバスで帰りました。

 幸い、そんな暮らしは4ヶ月ほどで終わりました。8月のお盆に家を買ってもらいました。引っ越しをして、その日からは、もちろん普通の洋服です。着物の生活は終わり。嬉しかったわ!

34. 本は親友

 昭和12年、大阪生まれ。親は都島の商店街で金物屋をしてた。

 私は幼稚園の頃にはもう字がぜんぶ読めた。というのも父方の伯父が本屋さんでね。遊びにいったら絵本をくれる。だから2、30冊は持ってたよ。私は本が大好きで、小さい頃から絵本をものすごく大事にしたの。破ったり汚したりなんて絶対にしなかった。

 父親が兵隊にいってしまうと、母と子供だけで暮らすのは大変やったんやろな。母方の実家に疎開した。愛媛県の山の中や。

 松山からバスで2時間ほどかかる。昔のバスは木炭バスで、水が必要やった。峠の上で1時間ほど停まって、運転手さんが谷間に下りていって水汲みせなあかんかった。

 疎開先にも絵本はぜんぶ持っていった。なにしろ村には絵本がなかった、なんにも、一冊も! 学校にも図書館なんてない。田舎だからもちろん本屋さんもない。だいたい昔は子供の本というものが少なくて、子供に絵本を与えるなんてよっぽどお金持ちのことだったんよ。

 私はたまたま伯父さんが本屋やったから持ってたけど、村の子は本なんて見る機会がない。だから珍しくて、みんな私の本を見に来るのよ。

「見して!」

 って。大きい子は字を読めるし、小さい子は絵を見ててもおもしろい。家の表はいっつも黒山の人だかりやった。

 疎開してからは新しい本は手に入らなかった。でも本よりもおもしろいことがあった。外で遊ぶこと! 山とかお寺の境内とかで走りまわって遊んでた。私はお転婆なんかとおりこしてガキ大将。弱い子がいじめられてると

「なんで泣かすねん!」

 って男の子と取っ組み合いしてたな。負けてられへん。

 いうても小さい田畑しかない貧しい田舎や。戦時中のことだから、お百姓さんは米を作っても作っても政府に供出させられで、お米なんか食べられへん。ご飯はトウモロコシで黄色かった。麦とか稗とか当たり前。米粒なんて探さんと見つからない。

 お昼はお弁当やけど、食べるモノがないから持っていけない。あってもサツマイモをごろんと一つきり。お弁当のない子は外で遊んでた。

 小学校3年のとき終戦になって、しばらくすると父親が帰ってきた。

でもすぐには大阪に戻らなかった。戻れなかった。大阪は空襲でなんもかんも焼けてしもてたから。

 生活のために父は商売を始めた。大阪へ仕入れにいくとき

「お土産は何がええ?」

 て聞かれるから、私は「本!」本しか言わなかった。その頃に読んでたのは少女小説。吉屋信子とかね。学校にも本はないし、同じ本を何回でも読んでたよ。読んでるときはものすごく集中してる。母がすぐそばで呼んでもわからないくらい。しまいに頭をボカン! とやられて

「さっきから呼んでるのに!」

 って叱られた。

 小学校を卒業するタイミングで大阪に戻った。でも四国の田舎と大阪とは違うやろ。知らんことが多かった。それに田舎の言葉が抜けてないから『バカ』ってレッテルを貼られた。

 でも私はクラス中からいじめられても「何いうとるねん」て知らん顔してた。私は本が好きで、いっぱい読んでたからやっていけたと思う。勉強も問題なかったよ。

 大阪では本が買えたから、おこづかいはみんな本になった。少女小説を卒業してからは純文学。芥川龍之介とか夏目漱石とか。日本文学全集も世界文学全集も、自分で少しずつ買い集めた。それはもう、ものすごい量やったよ。

 高校に入ると図書館の先生に指名されて3年間ずっと図書委員をしてた。図書館の主やった。新しく入った本を先に読めたし暇さえあれば図書館に浸かってたなあ。

 本のおかげで成績は良かったし「大学に行きたい」と思った。けど、親には「あかん!」て言われた。両親だけとちゃうで。おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん・・・全員で

「女の子が大学なんか行って、賢くなったらどないすんの!」

「嫁にも行かれへんやろ!」

 って叱られた。昔は、女が賢くなったら嫁にも行かれへんかったらしいよ。男より賢い女はいらんし、あんまり賢いと姑さんが扱うのに困るから。「賢い嫁さんはいらん!」だってさ。

 それで就職して結婚をして。結婚したときにも本は全部持っていった。文学全集も全部。六畳間の壁が床から天井までびっしりと本で埋まった。小さな図書館よりもたくさん本があったね。でも、それも火事に遭って、家ごと焼けてしまったけど・・・。

 火事のあとは本を買うどころじゃない。子供の学費もいるし、生活費もいるし、大変やった。

 今も本はずっと読んでるよ。本を読めば現実では経験できないことを経験できる。本の中の経験が自分のものになる。知識や考え方、問題を解決する力。そういうものがいつのまにか身についてくる。たとえ本が火事で焼けてしまっても、身についたものは自分の中にずっと残る。

 それは生きていくのに役に立つこと。自分の知ってることに加えて、、本の中で得たものも活かすことができる。 私はデイサービスに行って誰とでもしゃべれる、どんな話でも入っていける。

 私にとって本は親友。本がない生活は考えられない。

33. 雪国の通学路

 生まれたんは、滋賀県の山の中。昔のことやから、何もないとこやった。店なんか一つもない。だから食べるものはぜーんぶ自分で作るの。作るしかないの。米や野菜はもちろん、味噌も豆腐も、たまには醤油もなあ、それぞれの家で作ったんやで。その家ごとに味が違ったなあ。おやつといえば干し柿くらいやった。

 冬になると雪が深くてなあ。晴れてる日なら30分で学校まで行けるのに1時間かかるの。雪はもうほんまに、ひどいところは1メートル近く積もったかな。そこを歩くしかないやろ。

 頭には綿入れをかぶって。体には「マント」いうて、膝下までの長いのを着る。それで足は藁で編んでもらった長靴をはくんやな。ゴム靴やとすり減って滑るけど、藁はええで。滑らへん。けどな、雪って、溶けてきたらぐじゅぐじゅになるやろ。藁やから、水が染みてなあ。冷たかった。

 学校へは兄弟と行くんやけど、私は下の方でな。お兄ちゃんに手を引いてもろて歩いた。そんなに優しくしてもらった覚えはないけどな。いっつも「ほら、はよ歩け」って怒られてばっかりやった。でも雪の深いときにはな、あんまり進まんもんやから、お兄ちゃんがおぶってくれたなあ。せやないと遅刻するからな。・・・うん、いいお兄ちゃんやったと思うよ。普段はケンカばーっかりしとったけどな。

32. 汽車にしがみついて

若い頃、疎開で鳥取に住んでいました。女学校も鳥取でした。学校には汽車で通っていました。電車と違いますよ、汽車なんです。蒸気機関車。

それでね、それで・・・ふふ。
あるとき寝坊をしましてね。びっくりして飛び起きて、顔だけ洗って駅まで走ったんです。そりゃもう焦りましたよ!

すごい走ったんですけど、ちょっとだけ間に合わなかった。汽車の扉って、今の電車と同じで、片側だけが開くんですよ。私が到着したホームは残念ながら、扉が閉まってる側だった。乗り込むには反対側へぐるーっと回らないといけない。でも、汽車は今にも出発するところで、そんな時間はない。

汽車は目の前におるのにドアが閉まってて乗ることができない。これを逃すと次は1時間後。・・・さあ、どうしたと思います?

私ね、扉にしがみついて乗ったんです。もちろん汽車の外側にですよ!扉のとこにちょっとした出っ張りがあってね、そこに足をかけて。手すりか何かに両手でしがみついて。もちろん見つかったら怒られるけどそんなこと言ってられない、遅刻しちゃうから。それで必死になってしがみついてました。

ええもう、怖かったですよう。スピードは速いし、振り落とされたら大変ですもん!

途中に日野川という大きな川があってね、それを越えるときが一番怖かった。鉄橋なんで揺れるんですよ。下を見れば川が流れてる。落ちたら一巻の終わり! もう怖ぁて必死になって、しがみついてました。聞いてるほうは笑えるでしょうけど、本人は大変でしたよ!

そのまま3駅か4駅か、しがみついたままで行きました。途中の駅でいっぺんだけ、しがみついてた扉が開いたんですよ。チャンス、と思うでしょう?これで中に入れると思うでしょう?

ところが乗客がいっぱい降りてくるから、邪魔をしないよう、どかなくちゃいけない。乗ってくる人もいるから待たないといけない。そうこうしてるうちにまた扉が閉まっちゃって・・・自分だけ乗りそびれた。我ながら、一体なにをしてるんでしょうね。結局、もういっぺん扉にしがみついて乗りましたよ。

でもやっぱり最後までは行けなくてね。途中から歩いて行きました。学校まで。結局、遅刻しちゃいました。

今やったら、まあ、ダメでしょうね。そんなことしたら絶対に誰かに見咎められるでしょう・・・あ、この話、内緒ですよ?みなさんに言わんといてくださいね、恥ずかしいから!

31. 心のなかに海をもて

 わたしはこの山の中で生まれ育った。生まれも育ちもずっと山。山と田んぼと家のまわりと、三田の町しか知らない。昔は旅行なんか行けなかったから、山から出たことがなかったんよ。

 だから海なんか知らんかった。世の中には「海」というものがあると、本では読んだし、話に聞いたこともあるけど、見たことがなかった。「日本は海に囲まれとるから、車でちょっと走ったら海に出るのに」って、今の人は笑うやろけどな。

 わたしは30を超えるまで三田から出たことがなかったんや。生まれて初めて、この山に囲まれた三田を出たのは33才のとき。会社の人に汽車で連れていってもろて・・・社員旅行やな。

 あの時のことはよう覚えてる。そりゃもうびっくりしたし、感動した。あんなに大きな、大きな、どこまでーも青い、青い海!

 もう、なんともいえん気持ちになった。

「世界はこんなに大きいんや。ものすごう大きいんや。小さいことをクヨクヨ考えるのは馬鹿らしい」

 って思ったなあ。

 それからもう50年以上たつけどな、今でも心に、あのときの海をずっと持っとる。クヨクヨしそうになると、あの海の景色を思い出すようにしてるんや。

 あんたもな、いろいろあるやろ。若い時はとくにな。もし、しんどいことがあったら、あんたの中で一番大きなものを思い出してみ。心の中に海を持つんや。大きな大きな海を。そうすれば、ちょっとだけ生きやすくなるから。

30. それでも青春!

 生まれも育ちもずーっと大阪。江戸堀、大阪のどまんなかやね。戦時中、母親と妹たちは薄い縁を頼って三重のほうに疎開してたけど、父と私と兄は家が焼けるまで大阪にいてた。

 戦争のときは女学校2年生かな。あの頃はもうしょっちゅう空襲がきてた。最後のほうは服を着たまま布団に入って寝てたくらい。夜中でもなんでも
「空襲警報発令!」
 てなったらパッと起きて、防空壕へ入らなあかんからね。
 防空壕っていうか、家のすぐ近くにキリンビールの倉庫があって、ちょっとくらいの空襲ならそこに入ってたらよかった。でも大きい空襲になると中央公会堂か市役所に逃げてることになってた。建物がしっかりしてるから。
 3月13日(大阪大空襲)のときは、
「これはものすごい空襲や!」
 って中央公会堂に逃げた。ほんで空襲が終わったから帰ろうと、公会堂を出たらもう、まわりがなんにもないの。なーんにも! 辺り一面焼け野原でまだ煙が上がってるところもあったわ。うちの家も焼けてしもてな。そら、なんもかんも焼けた。

 そのあとは友達も学校をやめたり、遠くへ行ったりする人があったな。
私も「家が焼けてなかったらよかったのになあ」って何べんか思ったよ。なんせモノがない時代やったから。でも食べるのに必死やから、いろいろ考えてるヒマはなかった。

 家が焼けてからしばらくは、知りあいを頼って高槻に住んでた。女学校は高槻から通ったんよ。学校まで1時間半か2時間くらいかかったかなあ。大変やった。なにしろ電車の本数が少なくて30分に1本しかないし、うちと同じように空襲で焼け出された人がみいんな郊外に住むようになって、みいんな電車で通ってくるもんやから、ものすごう混んでなあ。ぎゅうぎゅう詰めで、乗るだけで死にもの狂いや。網棚に乗ったり屋根に乗ったりする人もいたくらい。

 あの頃はほんまにモノがなくてな。お金があってもモノがないから、材料を持っていかんと買われへんねん。
 近所に、小麦粉を持っていったらパンに換えてくれるところがあってな。女学校の友達みんなで家からちょっとずつ持ち寄って・・・親に内緒でやで! 持ち出したら怒られるから。そうやってみんなの家の小麦粉をこっそり集めて、学校の家庭科室の秤で200グラム量って。一人が代表でその小麦粉とお金を持ってパンに換えにいくの。そうやってお腹をふくらましてたの。親にはバレなかったよ。あと、みんなでお金を出し合って、たまったらおうどんを食べに行ったりもしたな。
 モノはなかったけど、なかったらなかったで楽しかった。若い頃は何しても楽しいねん。

 ぎゅうぎゅう詰めの満員電車で学校に行くのにも楽しいことはあった。ある日、お昼にカバンから教科書を出したとき、小ちゃくたたんだ紙が出てきてん。そんな紙、いつ誰が入れたかも分からん。私はてっきりクラスの子のイタズラやと思って
「誰や、こんなことしたん!」
 て大きい声を出してん。そしたらみんなが
「何、何?」
「どうしたん?」
 て寄ってくるやろ。ほんで紙を開けたら・・ラブレターやってん!小さい紙に、まあいろいろ書いてあったわ。
 差出人はすぐ思い当たった。朝の電車で、私は途中から乗ってくる友達に会うためにいつもおんなじ所に乗ってたんや。そしたら毎朝いっしょの電車で、いっしょの所に乗ってる男の子がいた。その子が手紙を入れたんや。ちょっと背が低いけど顔はすごくいい子やったな。返事?出せへんかったな。出してたら人生変わってたやろか。

 ほんまにあの頃は楽しかった。学校が楽しかった。友達と笑って、しゃべって、たまには悪知恵を働かせて、なあ。毎日がものすごい楽しかったんよ。青春やったんやろなあ。