38. 空襲の記憶

 戦争なんかしたらダメ!日本の国も当時はえらい人たちが負け戦(いくさ)にあわてふためいていたのでしょう。けど、わたしたち子供は学校にも行けず勉強もできない、ひどい目にあったんです。

 私は当時12~3才、まだ背の低い女学校2年生でした。その日はたまたま、家から少し西にある県立明石農事試験場へ、女学校のみんなと勤労奉仕に出かけていました。そこへアメリカの飛行機が、私たちの住む明石上空めがけて飛んで来たのです。警戒警報は空襲警報に変りました。
 サイレンと共に先生が
「急いで、みんな走って家に帰りなさい!」
 と云われたので、友だち数人といっしょに明石公園の坂を上りつめて走って走って家に帰りました。

 途中、もうアメリカの飛行機が機がブンブンと低い音を立てて東からこちらへ飛んできていました。逃げる日本人を上空から機関銃でダ・ダ・ダ・ダ・ダ、、、と追いながら撃つのです。どんなに恐ろしかったことか・・・。
 敵機が飛ぶその下を私は友達数人といっしょに必死で走りました。農事試験場から家のある太寺まで、3キロほどはあったでしょうか。それも家は高台にあったので上り坂です。あんなに長い坂道を、あんなに速く走ったのははじめて! みんな一言もものを言わずにわが家へわが家へいっしょうけんめい走りに走って、分かれ道で
「サヨナラ!」
 と手をふってそれぞれの家に帰ったのです。

 帰った途端、父が作った防空壕へすべり込みました。母や妹たちの無事を確認し、目と耳を両手で押えて爆撃の間、小さな防空壕の中で寄り添ってじーっと敵機が遠ざかるのを待ちました。
「あ、お父ちゃん!入ってきてない。どないしたんやろ」
「アメリカの飛行機が上空へ来ている時に外に出られへんやんか。」
 とみんなで心配しつつ身をかがめていました。

 やっと爆音が遠ざかったので、そうっと外へ出たら、大人の人たちが戸板をタンカにして怪我した人を運んでいました。すぐ隣りの上の丸方面の爆撃でやられ、避難所になっている高家寺まで運んだとのことです。一人の人が裏山の方に逃げて、逃げてる所を見つけられてアメリカの飛行機から撃たれて死なれたということで大ショックでした。
「裏山に逃げないで防空壕にいたらよかったんと違う?」
 とみんなで悲しんだことを今でも覚えています。
 怖くて怖くて一生懸命に走ったあの日のことは、一生忘れられない恐ろしい思い出です。

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