30. それでも青春!

 生まれも育ちもずーっと大阪。江戸堀、大阪のどまんなかやね。戦時中、母親と妹たちは薄い縁を頼って三重のほうに疎開してたけど、父と私と兄は家が焼けるまで大阪にいてた。

 戦争のときは女学校2年生かな。あの頃はもうしょっちゅう空襲がきてた。最後のほうは服を着たまま布団に入って寝てたくらい。夜中でもなんでも
「空襲警報発令!」
 てなったらパッと起きて、防空壕へ入らなあかんからね。
 防空壕っていうか、家のすぐ近くにキリンビールの倉庫があって、ちょっとくらいの空襲ならそこに入ってたらよかった。でも大きい空襲になると中央公会堂か市役所に逃げてることになってた。建物がしっかりしてるから。
 3月13日(大阪大空襲)のときは、
「これはものすごい空襲や!」
 って中央公会堂に逃げた。ほんで空襲が終わったから帰ろうと、公会堂を出たらもう、まわりがなんにもないの。なーんにも! 辺り一面焼け野原でまだ煙が上がってるところもあったわ。うちの家も焼けてしもてな。そら、なんもかんも焼けた。

 そのあとは友達も学校をやめたり、遠くへ行ったりする人があったな。
私も「家が焼けてなかったらよかったのになあ」って何べんか思ったよ。なんせモノがない時代やったから。でも食べるのに必死やから、いろいろ考えてるヒマはなかった。

 家が焼けてからしばらくは、知りあいを頼って高槻に住んでた。女学校は高槻から通ったんよ。学校まで1時間半か2時間くらいかかったかなあ。大変やった。なにしろ電車の本数が少なくて30分に1本しかないし、うちと同じように空襲で焼け出された人がみいんな郊外に住むようになって、みいんな電車で通ってくるもんやから、ものすごう混んでなあ。ぎゅうぎゅう詰めで、乗るだけで死にもの狂いや。網棚に乗ったり屋根に乗ったりする人もいたくらい。

 あの頃はほんまにモノがなくてな。お金があってもモノがないから、材料を持っていかんと買われへんねん。
 近所に、小麦粉を持っていったらパンに換えてくれるところがあってな。女学校の友達みんなで家からちょっとずつ持ち寄って・・・親に内緒でやで! 持ち出したら怒られるから。そうやってみんなの家の小麦粉をこっそり集めて、学校の家庭科室の秤で200グラム量って。一人が代表でその小麦粉とお金を持ってパンに換えにいくの。そうやってお腹をふくらましてたの。親にはバレなかったよ。あと、みんなでお金を出し合って、たまったらおうどんを食べに行ったりもしたな。
 モノはなかったけど、なかったらなかったで楽しかった。若い頃は何しても楽しいねん。

 ぎゅうぎゅう詰めの満員電車で学校に行くのにも楽しいことはあった。ある日、お昼にカバンから教科書を出したとき、小ちゃくたたんだ紙が出てきてん。そんな紙、いつ誰が入れたかも分からん。私はてっきりクラスの子のイタズラやと思って
「誰や、こんなことしたん!」
 て大きい声を出してん。そしたらみんなが
「何、何?」
「どうしたん?」
 て寄ってくるやろ。ほんで紙を開けたら・・ラブレターやってん!小さい紙に、まあいろいろ書いてあったわ。
 差出人はすぐ思い当たった。朝の電車で、私は途中から乗ってくる友達に会うためにいつもおんなじ所に乗ってたんや。そしたら毎朝いっしょの電車で、いっしょの所に乗ってる男の子がいた。その子が手紙を入れたんや。ちょっと背が低いけど顔はすごくいい子やったな。返事?出せへんかったな。出してたら人生変わってたやろか。

 ほんまにあの頃は楽しかった。学校が楽しかった。友達と笑って、しゃべって、たまには悪知恵を働かせて、なあ。毎日がものすごい楽しかったんよ。青春やったんやろなあ。

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