22. 何回でもゆるしなさい

監獄での一年

 十五年つづいた戦争の末期、私は兵隊として香港の九龍におりました。特高(特別高等警察)という諜報関係の仕事です。中国人を密偵として使っていました。中国人が日本のことをどう思っているか、日本人に失礼なことをしていないか、彼らに情報を集めさせていたのです。また逆に兵隊が悪いことをしていないかも監視していました。

 私自身は事務の仕事をしていましたので、具体的にはよくわかりませんが、当時の日本人は支配階級として中国人や韓国人を下に見ており、いじめていました。

 1945年4月に九龍の本部に配属され、8月で敗戦になりました。そのとき、中国人が直接、日本人に危害を加えるということは少なかったんです。それでも諜報で活躍した先輩は、ちょっと外に出たとき中国人につかまって吊るされて殺されるということがありました。それくらい中国人に恨まれていたのですね。

 私たちは戦犯容疑者として、赤柱監獄(スタンレー刑務所)に入れられました。もともとイギリス政府が作った監獄です。3階建てのレンガづくりで、島ですから海に面していて容易には逃げられません。

 部屋はそれぞれ独房でした。私は2階の65号室。板の寝台に木の枕、毛布が1枚、置かれているのは水だけです。香港でも1月、2月は寒いんですよ。1枚きりの毛布をぐるぐると体に巻き付けてミノムシみたいに寝ていました。

 食事は1日2回です。朝は5枚切りくらいのパンと、ハムチョイ(中国の漬物)。昼は無しで、夜は同じパンとスープがつくくらい。

 栄養が足りませんから結核で早くに死んだ人もありましたし、私も7~8キロは痩せました。とにかく野菜がまったく足りないものですから、野菜が食べたくて食べたくてね。たまに庭に出されて運動をさせられるんですが、庭のコンクリのすきまに生えていた雑草のスベリヒユを足でつまんで採り、持ち帰って生のまましゃぶったことがあります。

 看守は野戦帰りのイギリス兵でした。野戦帰りは気が荒いので、ちょっとでも違反をすると殴られます。彼らが廊下を通るときは皆そろって敬礼するきまりで、うっかり遅れたら叩かれた・・・それでも中国人よりは多少良かったんでしょうけれど。

 そんな監獄に一年間も入れられていました。一年の間に軍事裁判がひらかれ、下士官や将校の人たちは弁護士もないままに戦犯として絞首刑になりました。私の上司であった少佐も絞首刑になりました。

 私の階級は兵長、下士官のひとつ下ですし、勤務期間も4か月と短かったため、ぎりぎり命拾いをしました。もし昇格していたら上官たちのように殺されていたでしょう。下っ端だから助かったんです。

 監獄の中で私は、
「戦争とはどういうことか?」
「平和とはどういうことか?」
そういうことをじっくり考えました。そういう一年でした。

解放と出発

 一年後の11月21日。私はようやく解放されました。解放されたとき、とてつもなく大きな喜びに満たされました。人生を左右するほどの喜びです。11月21日はちょうど私の誕生日。その日に私はもう一度生まれ変わったのです。これからは平和問題に生涯を尽くしていきたいと思い定めました。

 それから故郷の宮城に帰り、農業をしました。まだ食糧問題が深刻でしたから、開墾事業などをしていました。

 しばらくして北海道へ行きました。酪農学園ということろで酪農の勉強をするためです。酪農学園は酪農や農業を学ぶ学校ですが、ミッションスクールでもあり、キリスト教という精神的な学問も修めることができました。

 酪農学園での4年間はかけがえのない勉強の場であり、その後の人生への出発点となりました。関西学院の大学院の神学部で学んだあと、ときには牧場経営などもやりながら、八十才まで牧師を務めました。

どうすれば戦争はなくなるのか?

 現在でもロシアや中国の再軍備が取り沙汰されています。武器を持つということは、いずれはそれを使って戦うということで、また戦争が始まるのではないかと心配しています。戦争が始まると人々は困窮し、大事なものはすべて壊されてしまいます。勝っても負けてもいいことは一つもありません。どちらにも大きな被害がでますし、被害は長く尾を引きます。戦争とは不条理極まりないものなのです。

 では、一体なぜ、不条理な戦争をするのでしょうか?
 戦争のもとは「敵意」です。「憎しみ」や「恨み」です。
「やられたら、やり返す」
 日本では昔から『忠臣蔵』の敵討ちが有名ですが、自分が嫌な目に遭ったり親しい人が被害をこうむったら、敵意や憎しみを抱き、いつまでも根に持っているでしょう。それこそが戦争や紛争の元なのです。敵意がある限りいつまでたっても平和は訪れません。

 敵意をどうやってなくすか。それがもっとも大事なのです。
 聖書にこんな一節があります。
「誰かに悪いことをされたら、私は何回赦すべきでしょうか。7回くらいですか」
 と尋ねられて、イエス様がこう答えます。
「7回どころか、7の70倍までも赦しなさい」
 1回2回ではあかんのです。何回でも何回でも赦しなさいと。

 もちろん赦すことは大変に難しいことです。至難の技です。でも、それを乗り越えて赦しなさい。そうすることによって平和が訪れます。それが聖書の教え。それがキリスト教の教えなのです。

21. 軍事教練

「わたしは歌が苦手でね。軍歌しか知らん。だけども歌いたくないよ軍歌なんか。『勝ってくるぞと勇ましく~♪』って、なんだよ、負けちゃったじゃないか」

 そう話してくださったのはHさんです。今回は奥様とお2人で戦時中のお話を聞かせてくださいました。

「出身は鹿児島、大隅半島だ。鹿屋には航空隊の飛行場があって、その近くに住んでた。鹿屋は昔から海軍の飛行隊でね。うちにも軍人さんが下宿してたよ。でも、みんな帰ってこなかった。帰ってきたと思ったら、すぐまた出撃でね。せっかく仲良くなっても結局、いっちゃうんだ。寂しかったね。

 小学校の頃は戦争もそんなでもなかったけど、中学に入ったら軍事教練をやらされた。

 軍事教練とは何かって? 突撃の練習だよ。銃を持って・・・そりゃ本物の銃剣ですよ。弾は入ってないけどね、貴重品だから。それでも本物の銃なんだよ。それを持ってね、敵陣へ突っ込んでいくんだ。

『わー!』

 って叫びながら。サボったらビンタをされるから真面目にやったよ」

「私らもやったわよ。学校じゃなくて町内会だったけど。女の子は竹槍でね。まっすぐ立てた竹に藁をつめた着物を着せて、敵に見立てて。そこに竹槍を持った子供が1列に並んで順番に『えーい!』って走ってつっこんでいく。

『英! 米! 撃! 滅!』

って叫びながらね。

『声が小さい!やりなおし!』

 って叱られるの。でも竹槍って、竹だから刺さらないのよ。すぐに先のほうがダメになっちゃう。だから刺すんじゃなくて、切るの。・・・切れるのかって? 切れるわけないじゃないの、竹なんだから(笑)。竹槍で切って倒せると思うことがもうおかしいよね」

「めちゃくちゃだったね。でもそのときは真面目にやってた。『こんなもので倒せるわけがない』なんて言えない。疑問なんて持ってたらぶっ倒されちゃうよ。

 僕ら男子はね、学校の成績のいいモノから順番に陸軍幼年学校を受けさせられた。将校を養成するところでね。ちょうど終戦になって、入らずにすんだけど。ひとつ上の先輩は特攻で沖縄へ突っ込んじゃった・・・。

 最後の方は本当、ひどいもんだったよ。鹿屋の航空隊もみんなやられちゃった。制空権が全部とられちゃったんだ。飛行場に戦闘機がやってくるだろ。てっきり味方が帰ってきたんだと思って

『おーい、おーい!』

 って、手を振りにいったんだよ。そうすっと敵機なんだよなこれが。

 出てった連中をめがけて、ダダダダダ!って。機銃掃射で。手を振ってた連中、みいんなやられちゃった。みいんな子供だったのにね。本当、ひどいもんだった」

20.中国で過ごした子供時代

 私は昭和十一年、鳥取県に生まれました。父は国鉄(現在のJR)の職員だったんですが、日本は中国を占領して、中国にも鉄道(華中鉄道)を敷いたため、中国へ転勤になりました。それで家族全員で行きました。私が3才、妹は1才でした。

南京

 3才から小学校2年生までは南京に住んでいました。日本人ばかりが住む住宅地で、学校の友達も日本人です。でも近所には中国人もいて。まるで仙人みたいな中国人のおじいさんがいたんですよ。白くて長~いヒゲがご自慢で、身長くらいもある長~い杖を持って。子供が好きなおじいさんでね、ちょとした飴玉やおせんべいをくれるのでいつも遊びに行かせてもらっていました。

 「中国人の家に遊びに行ってみよう」

 と友達と見に行ったこともあります。若い女の人が日向ぼっこをしながら刺繍をしていました。中国の人って手刺繍がとても上手で、衣服も華やかなんですよ。その女の人は繻子の履物にきれいな刺繍していました。眺めていると、

「あなた、やってみる?」

 と声をかけてくれて。ちょっと針を持ってみましたが、子供だったからうまく縫えませんでした。

 女の人といえば、その頃の中国にはまだ纏足が残っていました。纏足ってご存知ですか? 女の子の足をきつく縛って変形させる習わしです。昔の中国では小さい足が綺麗だとされていたのですね。足が極端に小さいので普通には歩けません。今にも転びそうな様子でひょこひょこと歩く姿がいかにも痛々しくて「可哀想ね」と友達と話したのを覚えています。

 ある日、日本人の家に泥棒が入りました。犯人は中国人。警官は日本人です。警官は犯人を捕まえると、大勢が見ている前で、ムチで叩いたんです・・・バシッ! バシッ!って。私は母につかまって泣いた。

「かわいそうだ、かわいそうだ」

 って泣いた。日本は威張ってたんですよね。

 日本は中国を占領していたのだけれど、中国人と日本人の関係がどのようなものか、私はまだ小さかったので何もわかりませでした。思うところはいろいろあったのでしょうけれど、中国の人たちは、子供には優しかったです。みんな良くしてくれました。

 中国語で若い娘さんのことを「クーニャン」といいます。我が家には2人のクーニャンが女中さんとして住み込んでいました。そのうちの1人がよく遊んでくれたので私は大好きだったんです。でも、そのクーニャンに飛び火(おでき?)ができて。母が薬を買ってきたんですけど、どんどん酷くなって…。

 ある日、学校から帰ったら、大好きなクーニャンがいないのよ。母に

「どこいったの?」

 と尋ねると

「あんまりおできが酷くなったから、実家に帰して養生してもらってる。治ったらまた来てもらうから」

 というんです。私はもう寂しくて、毎日泣いていました。それくらい大好きだったんですよ。

上海

 小学2年か3年のとき、こんどは上海へ引っ越しました。上海でも日本人学校に通いましたが、バス通学でした。運転手はシンさんという中国人です。シンさんはとってもいいおじちゃんでね。笑顔が優しいんです。ランドセルを横に置いて座っているとね、妹が、こっくりこっくり寝ちゃうんですよ。妹はまだ1年生でしたからね。シンさんはそれをバックミラーで見てたんでしょう。わざわざバスを停めて、妹を抱き上げて横に寝かせてくれました。ほんとに優しい人でした。

 私たちの生活はそんな感じでしたけれども、日本はそりゃあ戦争をしていて、赤紙がくると男の人が兵隊に取られたりもしたものです。夜にベランダで涼んでいたら、サーチライトがあちこちの空を照らしているのが見えました。父が

「敵の飛行機が飛んでこないか探してるんだよ」

 と教えてくれました。

 上海には神社がありましてね。学校の先生に引率されて毎月お参りに行きました。

「日本の国が勝ちますように!」

 とお祈りするために。

日本

 昭和20年の春になると、中国もいよいよ危なくなり、父を残して船で帰国することになりました。戦争中のことですので、どこの港に着くかもわかりません。

「魚雷に当たって船が沈むかもしれない」

 と言われ、みんな浮き袋をつけたままで寝ました。ですから母が

「日本に着いたよ!」

 と起こしてくれたときは嬉しかったですね。魚雷にあたって死ぬかもしれないと思っていたので、ちゃんと着いて嬉しかったんです。

 そのあと私たちは鳥取で農家をやっている祖父母の家で暮らしました。田舎でしたが空襲があり、空襲警報のサイレンがウーッ、ウーッっと鳴るたびに防空壕に入ったりもしました。

 学校で空襲警報が鳴ると家に帰されるんですが、そのとき、上級生が下級生を世話してやらないといけないの。私は4年生だったのだけど、その日は一番上だったのですね。下級生を率いて帰る途中に、敵機がやってきた。とっさに

「山に隠れよう!」

 と山に入りましたが、低い木がボソボソ生えているだけの禿山みたいなものです。

「こわい、こわい!」

 と下の子が泣くんですよ。私も子供だったから、そりゃあ怖くって

「泣いたらだめ、大きな声を出したら敵に見つかって爆弾を落とされる、黙って!」

 と必死になだめていました。そしたらB29が4機か5機やってきて、スレスレに低く飛んで、通りすぎていきました。あのときは命がないかと思いました。

終戦

 祖父母は農家だったので、私は毎朝かんぴょうを干すお手伝いをしていました。でもあの日…8月15日は、起きてみたらもう全部干し終わっていたんですよ。母の姿も見えません。

「あら、お母ちゃん、どこへ行ったのかな?」

 と不思議に思いました。寂しくなって探しにいったら、道路の向こうから母がトコトコと歩いてきて

「日本は戦争に負けた」

 と言うんです。まだ朝の8時半かそこらでしたが、誰かに聞いたんでしょうね。

 私は嬉しかったの。もう逃げ回らなくてもいいし、怖い怖いと言わなくてもいいし。「戦争が終わった」って聞いたときは、生まれてきた中で一番うれしかったね。それだけ怖かったの。平和って、すごいんですよ。 

 天皇陛下の玉音放送はお昼頃でしたでしょうか。兵隊さんが土下座をしてね。頭を土につけてラジオを聞いてました。

 その頃、父は仕事があったので、一人で中国に残っていました。戦争が終わってもすぐには帰ってこれませんでしたから、ひょっとしたら殺されてるんじゃないかと、みんな心配していました。

 ある日食事をしていたら、玄関のほうで

「帰りました」

 って声がしたんです。私は

「お父ちゃんじゃない?」

 と言いました。そしたら母が箸を置いて下駄をはいて玄関に出ていったんです。父でした。抱きしめてくれました。

「元気だったか。よかったなあ」

 って。嬉しかったですね。

19.大阪と福井の空襲

父と二人

 生まれは昭和6年。だから昭和20年は女学校に入った頃だったかな。今でいう中学1年か2年や。

 空襲があったとき、私は父と2人だけで大阪の家に住んでました。私は小さいときに猩紅熱にかかったんやけどね・・・猩紅熱って伝染病だから、母や弟にうつらんように父親が一か月ぜーんぶ世話してくれたの。そういう父だからね。戦争が激しくなってきて「大阪は危ないから疎開しよう」ってなったとき、父を置いていけなくて、私は大阪に残ることにしました。

大阪空襲

 家は京橋の駅の近く、カネボウ工場の向かい側でした。その工場が空襲で狙われたの。焼夷弾がじゃんじゃん降ってくる。道路の向こうに立ってたポプラの木にも落ちて、生木が炎をあげて燃えてね。父に

「ここにおったら危ない。俺は家を守るから、お前は逃げぇ!」

 と言われて京橋駅の方に1人で逃げたんです。ちょうどカネボウ工場の従業員がいっぱい逃げてきたから、その人たちと一緒になってね。カネボウの白い作業服の人たちの中に紛れてた。

 まだ昼間のことでしたけど、煙でだんだん暗くなるから、敵は照明弾を撃ってパーッと照らすんですよ。すると白い作業服は目立つでしょう。そこを狙って焼夷弾を落とされたの。焼夷弾が雨のように降ってくる!

 焼夷弾というのは長さ2,30センチ、六角形の棒で、人や物にくっついて火を吹くようにできてるんです。

 その焼夷弾が私の頭の上に落ちてきたんですよ! でも私はカッパみたいなのを着ていてね。頭にも分厚いゴムのやつをかぶってたから、焼夷弾がくっつかずにスルスルっと足元に落ちて、うまい具合に火が出なかったんです。おかげで助かりました。

 京橋駅の裏のお墓まで逃げたら、そこには焼夷弾が降ってこなかったから、一人でじっと隠れてました。実家の方を見たら火の海になってるのが見えて。 

 そのまま何時間、隠れてたかな。昼間やのに煙のせいで暗いから、時間がわからないのだけど、たぶん夕方になってたと思います。やっと空襲が終わって。家が心配で心配で、帰ってみたら父親が

「大丈夫やったよ」

 と。家も父も奇跡的に助かったんです。

福井空襲

 なんとか助かった明くる日に「ここにおったら危ないから」いうて福井につれていかれました。母の実家で、母と弟が先に疎開してたから。福井には一か月くらい居たんやけど・・・そこでまた空襲に遭ったのよ。

 昭和20年7月半ばの福井大空襲。そのときはもっと大きな焼夷弾が福井全市に落ちました。男の人はみんな戦争に行ってるから、家を守るのは女の人ばっかり。でも、おばさんが気丈な人でね。

「私が家を守るから、おばあちゃんを連れて逃げぇ!」

 と言われて、私はおばあちゃんと母と弟と、4人で田舎のほうを目指して逃げたんです。どこへ逃げるというあてなんか、ありませんでした、それどころじゃなくて。とにかく歩いて逃げました。田んぼのほうに逃げながら、街が火の海になって、家が焼け落ちるのが見えましたよ。

 ところが、歩いて歩いて逃げてるうちに、おばあちゃんの腰がぬけて歩けなくなってしまった。

「若いもんだけで逃げてほしい」

 と言わはったけど、そんなこともでけへんし。私がおばあさんをおぶって逃げたんです。これがまた重たいおばあさんでね! 私もまだ子供やったのに、よくあんな力が出たと思うわ。

 空襲がおわって帰ってみたら、家は丸焼け。でもおばさんは無事でした。

「ちょっと手伝って」

 と言われていってみると、近所の人たちが大勢亡くなってる。そこらに死体が転がってるから、その人の家・・・家いうても、ぜんぶ焼けしもてるけど、その人の土地のところへ、それぞれ連れて帰ってあげた。おばさんが頭の方を、私は足の方を持って。そしたらな、死体の目とか鼻とか口から耳から血がダラ~っと出てくるねん。そらもう頭側を持つおばさんは大変やったと思うわ。それをまあ、10人くらい運んだかな。

 近所の人たちだけじゃなくてね。京都から疎開してきた従妹も、煙に巻かれて亡くなったんよ。まさか疎開先で亡くなるとは! 叔母さんが崩折れて泣いてはった。

 それからね、それから・・・家の横っちょでも、5,6才の子供が20人くらい固まって死んでたの。焼け死んだのじゃなく、煙にまかれて。蝋人形みたいになってた。顔もきれいなまま、小さい子供たちが、蝋人形。あのときだけは、あれを見たときだけは、もうね・・・もう、たまらんかった。

 何年も経って、大人になって、自分が子育てしてる時にもよく思い出したよ。今でも思い出すとつらいね。

 そのあと私たちは一旦京橋の家に戻ったんですけど、空襲がますますひどくなったもんで、家族は高槻へ行き、私は学校みんなで富田林の山に疎開しました。おかげで助かったんですね。富田にいる間に終戦になったから。もしあのまま京橋におったら、終戦前日の「京橋駅空襲」に遭って、無事じゃなかったかもわかりません。砲兵工廠がやられて、えらいことやったそうですよ。