39. 2人分の愛情

 大正11年生まれ。京都府の綾部に住んでいました。
 私は20歳で婚約をしました。でも婚約者に会ったのはたった1回だけ。その人は兵隊さんだったんです。新兵をつれて帰ってくる仕事があり、その機会に見合いをしました。「結婚してください」と言われて「はい」とお答えしました。が、すぐに戦地に戻らなくてはいけないので、たった1日しかありませんでした。

その日は旅館に泊まっていたので、私の父が
「今晩、結婚させてやってくださいませんか」
 と頼みました。なにしろ次に会えるのはいつになるかわかりませんから。すると婚約者は
「僕は国のために戦争に行かなあきません。死んで帰るか生きて帰るかわからないから、今結婚することは見合わせてください。元気で帰ってきたら、そのとき結婚させてください」
 と言ったんです。それで京都駅でお別れをして、それっきりです。当時はみんなそんなふうでした。男の人は戦争に行ってしまい、残っているのは女性と子供と老人ばかりだったんですよ。結婚するのが難しい時代だったんです。

 それでも婚約したものですから、私は舅と姑の世話をするようになりました。
 私は綾部に住んでいましたが、姑は福知山。15キロほど自転車をこいで、月に2~3回も通いました。モノのない時代でしたから、珍しい食べものが手に入ったら持っていってあげたり、蚊帳を吊ってあげたり、破れたシャツに継ぎをあてたり。そんな生活が4年ほどつづきました。

 婚約者はなかなか帰ってきませんでした。戦地から2,3回便りがありましたが、それだけです。戦況は厳しくなり、生きているのか死んでいるのかもわかりません。終戦を迎えても帰ってきませんでした。とうとう婚約者の家族から
「あんまり長いあいだこの家に縛りつけるのは申し訳ない、他に縁があればそちらと結婚してください」
 と言われたんです。でもね。私は、あの人と婚約してるんですよ。そんな失礼なこと、できませんでしょう?
「帰ってくるまで待っててくださいね」
 と言われて「ハイ」って返事したんですもの・・・。
 けれどそれから数ヶ月して、婚約者はフィリピンで戦死したと、公報に載りました。

 婚約者の弟が帰ってきたのは終戦の翌年でした。ビルマの生き残りで、やせ細っていました。
 家族や周りの人たちは
「死んだ婚約者のかわりに弟と結婚してはどうか」
 と言いました。弟も、私が長いこと両親の世話してきたと知ると、結婚しようという気になりました。
「一生、兄さんと僕と、2人分の愛情をかけます」
 と言ってくれたんです。私はその言葉を聞いて「この人と結婚しよう」と思いました。京都駅で婚約者と別れてから4年数ヶ月が経ち、私は24才になっていました。

 「2人分の愛情をかけます」と宣言したとおり、主人は102才になる今まで一度も怒った顔を見せたことがありません。このひとと結婚してよかったと思っています。また、主人は亡くなった兄(婚約者)ととても仲が良かったそうです。
「兄さんなら僕よりもっと大事にしてくれたはずだよ」
 と言います。穏やかないい人だったそうです。京都駅での別れ際に2人で撮った写真を今でも持ち歩いています。

投稿者:

NPO法人さわやか三田

兵庫県三田市の特定非営利活動法人です。 訪問介護「さわやか訪問介護ステーション」 地域密着デイサービス「さわやかサロン」 有償ボランティア「助け合いの会」 福祉有償運送「さわやか号」 を運営しています。 詳しくはホームページまで。