37.お国のために

西陣織の織屋

 大正13年の生まれです。家は京都の西陣です。織物の町ですね。
 うちも西陣織の織屋でした。織り物いうのは、それはそれは手がかかっているんですよ。ものすごくたくさんの工程がありましてね。全部が分業なんです。家には3台か4台かハタがあって織り手はん(男の人)や糸継ぎさんが働いてます。

 私も子供の頃からその手伝いをさされてました。私がするのは、糸を巻きとる「ぜんまい」の仕事です。学校から帰ったら手伝わなアカンから勉強するヒマなんかあらへん。夕方、友達が誘いにきて、周りの職人さんが
「みっちゃん、もう行ってええで」
 って言ってくれたらね、そのときだけは外へでて、鬼ごっこやら隠れんぼやらして遊びました。機織り機は大きいのですよ。カタンカタンと音がしてね。トントン、て締めるんです。その音が聞こえてきたら、なんとなく気持ちがよろしいですね。

おばあちゃん

 3才くらいのとき母が死にましてね。継ぎの母が来てくれはったんです。でもその人があんまりええ人やなかった。顔はきれいやけど心がよくなかった。しょうもない意地悪ばっかりしますねん。父親も新しい嫁さんを守ろうとする。私は小さいときに死んだお母さんのことははっきり覚えてないから、
「前のお母さんはどんな人やったんえ?」
 て聞きたいねんけど、昔のことを知ってるおなごし(女中)さんは全員やめさせられて、誰も知らんかった。ただ、一緒に住んでた父方のおばあちゃんだけは、いっしょけんめい私を守ってくれはったんです。

 このおばあちゃんが気の毒な人でね。おじいちゃんが外に妾を囲いよった。しかも、それを家に呼ぶんですよね。床の間のところ(上座)へおじいちゃんと妾はんとが座って。おばあちゃんがお茶を出して
「どうぞおあがりください」
 って言いますねん。それが「出来た女房」と考えられていたからです。昔は男性が偉くて女は低くみられてた。男女の差というのがすごかったのですよ。

 私には弟がいましたが、女の私のほうが低く見られます。おばあちゃんはそんな私を守ってくれた。だから私もおばあちゃんを守ろうと思った。しっかりしないとおばあちゃんを守れない。子供やったけどいろいろなもんを見て、大人になりました。それでね、私、結婚するまでずっとおばあちゃんと一緒に寝てましてんで。
「みっちゃんと一緒に寝てるとあったかいわ」
 とおばあちゃんは言いました。

愛国少女

 高等小学校を出たら働きに出ました。16才のときに戦争が始まります。お茶やお花も習っていましたが、そんな場合じゃないと思いました。裾の長い着物を着ていると非国民やと言われましたし、私も
「戦争の手伝いをしないかん、お国のために働かないかん」
 と思い込んでいました。そういう時代でしたし、私はそういう人間でした。
 ある日、島津製作所の前を通りかかりました。
「ここは軍需工場、戦争のことをやってる会社だ。ここならお国の役に立てる」
 とわかりましたので、入っていって受付で人事課の人に合わせてくれと頼み、
「ここで働きたいと思います!」
 て言うたら
「明日からでも来てくれ」
 ということになったんで、勤めていた会社をその日にやめて、島津製作所に入りました。親にも誰にも相談しないで、その日にですよ。しかも家から遠かったんです。電車賃がだいぶかかりました。

 仕事は「海軍課」での事務でしたね。私は事務員として働いていましたが、やがて工場の手伝いにいきました。そこでは爆弾をつくるんです。火薬を入れていくんですよ。とにかくあの頃は何もかも戦争、戦争でね。配給で食べるもんもなくて酷いもんでしたけど、それでも「お国のために何かせんならん」と思っていましたから一生懸命でした。
 こんなこともありました。休み時間に友達と話をしてると、同じ工場の男の人が
「僕らと仲良くしませんか」
 て言うてくるんです。私は説教してやりました。
「今はそんなことしてる時と違いますやろ!」
 なにしろ国のために尽くさんならんという気持ちだけでしたから。わずかな給料も電車賃以外はぜんぶ家に入れて、まったく遊んだりせずにね。国を守るために働いて、家ではおばあちゃんを守る。一所懸命に。そういう青春でした。楽しみなんて、懐中電灯を持って押入れに入って、本を読むくらい。漱石はぜんぶ読んだね。

 大阪や東京は空襲がひどかったらしいですけど、京都にはほとんど爆弾は落ちしませんでした。だから戦況が悪いという実感がないんですね。勝つ、勝つ、と言われてたのを信じてた。工場でもずっと爆弾を作ってたし。
 だから戦争に負けたときはアホみたいでしたよ。こんなに頑張ってるのに負けるやなんて!玉音放送は家でラジオで聞いてたんですが、
「日本負けた!負けたよ!」
 って叫んで家族に知らせました。

 戦後は食べるものがないので、田舎へ着物を持っていって食べ物と交換したりしました。でもね、京都駅で国が取らはるねん。せっかく手に入れた食べ物を役人みたいな人が持っていってしまいよる。理由なんかあらしません。ただ黙って取っていきよるんです。
 アメリカの兵隊が私の手を引っぱって連れていこうとしたこともあります。「ええええ!」と思ってたら、隣にいた中年の男の人が
「マイ・ワイフ、マイ・ワイフ!(俺の妻だぞ!)」
 って助けてくれた。あのまま連れて行かれてたら、どないなってたやろね。そのあとも電車を待ってたらアメリカ人がいっぱい歩いてるでしょう。また手を引っ張られたら終わりやから、せいぜい顔が見られへんように気をつけてました。

 その頃は食べるものがないから大変やったね。ドロドロのおじやでも家族に食べささなあかんからね。それやから、お母さんは意地悪をして、おばあちゃんのご飯を減らしたりするのよ。
「年寄りやからお腹すかへんでしょ」
 いうて。そんなことあらへん、年寄りでも同じように食べたいのよ。でも、そうは言われんから、私の分をおばあちゃんにこそっとあげてた。まあそういうこともあって戦争は二度としたくないね。

 主人とは見合い結婚です。捕虜になって一年後に帰ってきた人でした。ひと目みるなり「あ、このひとは真面目な人や、この人やったらええ!」
 と思いました。まあ一目惚れですわね。結婚をして家を出るときは嬉しかったです。あの揉めとる家をやっと離れられるって・・・ただ、おばあちゃんを置いて出ることだけが気がかりでした。