4.2個のランドセル

本日の語り部は、昭和12年生まれのF子さん。
お父様との思い出を話してくださいました。


「一番悲しかったのは、父親が戦争に行ったとき。私はお父さん子だったから悲しかったなあ。」
 父親が出征したのは昭和17年のこと。
F子さんは5つだったか6つだったか。
「逆に、一番嬉しかったのは、父親がランドセルを送ってきてくれたとき」
一体どこからランドセルが送られてきたのかはわからない。
そのとき父親がどこにいたのかはわからない。まだ内地にいたのか、それとも誰かに託していたものか、小学校へ上がる娘に祝いのランドセルを送ってきた。

「赤いランドセルのふたに大きな花が描いてあって。それが嬉しくて嬉しくて、今も目に焼き付いているの」

 母親も、まさか戦地からランドセルが送られてくるとは思わず、すでにランドセルを用意していた。F子さんはランドセルを2個も持つことになった。

しかし戦況は悪化していく。
父親はアッツ島(昭和18年に玉砕)で戦った。
大阪に住んでいたF子さんは何度も空襲に遭った。

「その頃の子供は今の子よりしっかりしてたと自分でも思うよ。だっていつ一人になるかわからないでしょう?空襲でどんどん死んでるから、自分の親だっていつ死んじゃうかわからないものね。もし一人になっても生きられるようにせんと・・・って。泣いてる暇なんてなかったよ。食べられる草とかを探してたの」

 8才の少女が覚悟を決めて暮らしていた昭和20年の夏、とうとう戦争が終わる。しかし父親は帰ってこなかった。なんの頼りもなく1年が過ぎ2年が過ぎ、家族はもう死んだのだろうとあきらめていた。

 だが父親は生きていた。捕虜になりシベリアで抑留されていたのだ。殴られて殴られて、生きているのが不思議なくらいの苦労をしながらも生きぬいた。

 父親がようやく日本の地を踏めたのは、昭和22年の秋のことだ。引揚船が到着した舞鶴港は『岸壁の母』そのままの光景だったという。終戦から2年が過ぎても港では家族たちが待ちつづけていたのだ。自分の妻や娘たちはどこにいるのだろうと探したが姿はない。
家族にはなんの知らせも届いていなかったからだ。

 とにもかくにも大阪の我が家を目指したが、そこにも家族はいなかった。家族はもう引っ越していたのだ。役所に相談してようやく探し当てることができたという。

 F子さんの父親は、船を降りたときに20円を支給されていた。20円といえば大金だ・・・いや、大金だと思っていた。大阪まで帰ってきたとき、待ちわびているであろう家族の顔が思い浮かんだ。
「20円もあるんだ。子どもたちにお菓子をいっぱい買って帰ってやろう」
と店に入った。
「あれも、あれも、あれもください!」
 だが、菓子の値段に愕然とする。彼がシベリアで抑留されているあいだに日本では猛烈なインフレが起こっていたのだ。出征した当時なら大金であった20円は、戦後2年もたつとお菓子も買えなくなっていた。店の人には怪訝な顔をされたが、ぜんぶ返すしかなかった。

 父親が帰宅したときのことをFさんはこう話す。
「嬉しすぎて、どういうふうに喜んでいいのかもわからへんかったね。だってもう戦死してると思ってたから。『ええ!?』ていう感じ。父親の顔も栄養失調で顔は倍に腫れ上がっていたし」


F子さんの家族は戦後2年を経てようやくそろって暮らすことになりました。シベリア帰りの父親は、抑留中に編み物を覚えたのだといって娘たちに毛糸のパンツを編んでくれたそうです。

(たかはたゆきこ)

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